アゴ削りは名古屋の美容整形外科「小木曽クリニック」では二重の手術から豊胸術、アゴ・エラ削りなど全ての手術に対応。エイジングケアのコースもあり。

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Vol.1 疲れたご自分の顔がどうしても許せない

私は、もう20年近く美容医療に携わっています。クリニックには毎日多くの患者様が来院されますが、日々の診療を通じて色々な方々と出会う中で、数多くの思い出や素晴らしい感動がいつまでも私の心に残っています。それが私の最も大きな財産であり、私の医療に対する大きな原動力です。このコーナーでは、そんな思い出の中から少しずつお話しして行きたいと思います。

私の以前からの患者様で、会社を経営されている40代後半の女性がみえます。その方は、30代で設立された会社のために毎日忙しく働いていて、ふと鏡を見た時に、疲れた自分の顔がどうしても許せないと来院されました。まず、顔のしわにヒアルロン酸を何度か注入されて、その後、頬ミニフェイスリフトを受けられました。その結果に大満足され、後にコメカミリフトを受けられました。今も時々成長ホルモンを用いたエイジングケアを受けに来られますが、どう見ても20代後半で、実際より20歳以上若く見えます。外見以上に変わられたのは、その明るく輝く表情ですが、ご本人は性格まで明るくなったと言われています。

やはりどんな女性も「いつまでも若くそして美しく」は永遠のテーマです。60歳まではこのままで行くと張り切っておられますが、ただ一つ困るのが、いい歳をして独り身の私を案じてか、来院されるたびにお見合いのお話を持って来られることですね。

Vol.2 院長は患者さんを2度も泣かせたと言われてしまいました

今から4年前のことですが、20歳の女性が豊胸術を希望されて来院されました。「天は二物を与えず」といいますが、その女性はとても綺麗で上品な方でどこかのお嬢さんという雰囲気でしたが、バストが殆どないくらいに小さいのが服の上からでもよく分かりました。美容外科は初めてということで少々緊張してみえたのでリラックスして頂こうと思い、職業上身につけた経験?から「バストはアンダーが67cmのBですね?」とずばり言ったところ、「すごい!服の上からでも分かるんですか?」と感心されてしまいました。それで緊張が解れたのか、その方が今まで自分の小さなバストでどれ程悩んだか、家が裕福でなくて苦労されたことやアルバイトをしながら大学へ通っていることなどを親しくお話して頂けました。

さて手術当日、私から声をかけて「昨夜はよく眠れましたか?さあ今日は今までの悩みをなくして新しく生まれ変わる日ですよ。」と励まして、手術は順調に進みました。当院では手術中にバストの大きさや形が確認出来るため、途中で見て頂いたところ、突然に泣き出されてしまいました。痛みはないはずなのにと思い聞いてみると、何とご自分のバストを見て感激されたとのことでした。手術の結果は非常に良好で、最後の検診の日に「先生に出会えて私は今までの人生を変えることが出来ました。本当にありがとうございました。」と言われてまた泣かれてしまいました。

スタッフからは院長は患者さんを2度も泣かせたと言われてしまいましたが、最後の言葉の意味が分かったのが、ある雑誌でその女性が大きなミスコンテストで入賞した姿を見た時でした。今でも私の心に誇りとして残っています。

Vol.3 お父様とお母様が待合室でお嬢さんを挟んで大喧嘩

今回は24歳の女性のお話です。第一印象は暗~い感じのする方でした。お話を聞いてみると、小学生の時から顔のことでいじめにあったとのことで、楽しい思い出は殆どなかったと言われました。私は歳のせいか小さい頃は楽しい思い出ばかり(?)の自分と比べて思わず同情してしまいました。

診察の結果、先ず暗い印象は目にありました。昔から「目は口ほどにものを言う」というように、人の第一印象は目で決まります。初めて会った時、その人が優しそうな目、元気そうな目、若々しい目をしていると、実際はどうであれ、優しい性格で活力もあり年齢も若く感じるものです。まさに「目力(メジカラ)」は強力です。

その女性は上瞼の皮膚と眼窩脂肪が多くて被っているだけでなく、目瞼下垂といって上瞼を持ち上げる挙筋の力が著しく低下していました。そのために重い瞼を持ち上げようと自然に眉毛を吊り上げるため額には年齢に似合わないシワが沢山出来ていました。またその方の目頭には、日本人の6割ほどに見られると言われているモウコヒダがあって、目の横幅を狭くしているため、目の大きさを更に小さくしかもキツイ印象の目つきになっていました。ご本人には、可愛くて優しい目になるために、眼瞼下垂手術と目頭切開術が適応であることとその方法などを詳しく説明して、手術を受けられることになりました。ところがこの方は、その後手術までに色々な波乱があった為、大変印象に残っています。

(前の記事の続き)さて前号でご紹介した24歳の女性は、眼瞼下垂の手術と目頭切開術を行うことになりました。

手術は弛んだ挙筋腱膜をリフトアップする方法ですが、左右のバランスと自然な目の形を造るのに熟練した技術と経験が必要です。目頭切開術はモウコヒダを修正してソフトで切れ長な目にします。

ところが手術当日に予想外な事になりました。突然その女性のご両親も一緒に来院されて、手術に大反対されるお父様と賛成のお母様が待合室でお嬢さんをはさんで大喧嘩になってしまったのです。結局、私が仲裁に入り2時間近くもお話しする羽目になりました。原因はお父様の目を見てすぐに分かりました。お嬢さんの目がお父様と全く瓜二つだったのです。

お母様の目はクッキリとした大きな二重です。色々とお話しましたが、お父様は「親から貰った顔にメスを入れるとはとんでもない!人間大切なのは外見ではなく中身だ!」という典型的な考えです。勿論お父様の考えにも一理はあり、また自分に似た娘の目を変えてしまうことへの寂しさもあったのでしょう。ただお嬢さんのカワイイ目になりたいという希望も叶えてあげたい。そこでお父様に手術内容や安全性をお話した後にこう切り出したのです。「お嬢さんの目は確かにお父様のDNAを引き継いでみえますが、お母様のDNAも半分入った目にしてあげたらいかがですか?」この一言でお父様は納得されたようです。

手術は無事終わり、結果も大変に良く、後日お父様がとても喜んでみえるお聞きました。娘の目が自分にとてもよく似て(?)可愛い顔になったと言っておられるとのことでした。どんな父親も自分の娘は可愛くて仕方がないのでしょうね。

Vol.4 部長、とっても若くて素敵になりましたよ

今月は珍しく48歳の男性のお話です。大手広告会社の営業部長をしてみえるとのことで、カウンセリング時のお話も大変に上手で同性の私から見ても中々魅力的な男性です。以前TVでよく流れた某社の車のコマーシャルで、部下の女性の失敗を自分が被って謝るあの男らしいナイスミドルの男性のイメージです。

そんな人生に自信あふれて見える男性の口から出たのが、「自分は若い時からこの大きくて低い鼻と重く被った眠そうな目が嫌いで仕方がありませんでした。学生時代はスポーツ万能で成績もマアマアだったせいかクラスの色々な役もやりましたが、社会人になったから初めて会う人がいつも自分の大きな鼻を見る視線を痛いほど感じました。多分この鼻と目のせいで女性には何度も振られました。だからこそ負けたくないと思って頑張って来ましたが・・・」という胸の痛みを語って頂きました。私も同じ年代の男性としてこの男らしい魅力溢れる男性の長年の悩みをどうにかしたいという意欲が湧き上がって来ました。

X線などの術前検査の結果、この男性には鼻骨縮小術・隆鼻術・鼻尖縮小術・鼻翼縮小術及び上眼瞼切開術を同時に行うことにしました。特に鼻骨縮小術は鼻骨の両側を細いノミで切って内方へ移動して鼻を細くする手術で今回のメインです。長時間に及ぶ手術でしたが無事終わり経過も順調で、1ヶ月後に来られた時には大きくて低かった鼻が細く高く品の良い鼻になっており、眠そうだった目ははっきりとして相手に目力を感じさせます。と同時に全身からは自信がみなぎっていました。

周りの反応が心配だと言っておられましたが、会社の女性社員からは「部長、とっても素敵になりましたよ。」の言葉で一安心。しかし一番気にしていた奥様からは「その歳でイケメンなってやっと私と釣り合いが取れたわね。」と言われたそうです。

Vol.5 1ヶ月検診時にはJJモデル並みにソフトな輪郭の小顔に

今回の方は26歳の女性で小顔の相談で来院されました。カウンセリングでは「身長の割りに顔が大きく骨ばって見えるので、卵形のソフトな感じの小顔にしたい」というご希望で、当時有名なJJのモデルの写真を持参されました。モデルの女性は典型的な流行の小顔でハーフっぽい印象ですが、プロの私の目から見ると美容外科手術で色々と修正されているのが分かりました。

一方患者さんの顔は、頬骨が大きく前方と側方へ張っている上に、エラ骨(下顎角)も大きく咬筋も肥大しています。顔面骨は出っ張っていると顔が大きく見えてきつい印象になるばかりでなく、頬やコメカミは逆にこけて見えてしまいます。顔面骨のX線を見ながら患者さんの希望を聞いて手術の方法と限界などを詳しく説明し、手術としては頬骨縮小術(頬骨削り)と下顎角縮小術(エラ削り)に決定しました。

この手術は口腔内からのアプローチのために傷痕は外からは見えませんが、狭い視野で特別な器具を用いて行うために、熟練した技術と長い経験が必要です。特にこの患者さんは、縮小量を大きくするために頬骨は1cmほど切除し内方へ移動する方法と、下顎角は広範囲に角部を切除した後に外板を切除する術式を行いました。手術は全身麻酔で5時間近い手術でしたが、結果は非常に良好で、あれ程大きく骨張った顔が、1ヶ月後にはJJモデル並みにソフトな輪郭の小顔になっていました。

結果に大満足されたためか、その後この患者さんはバストアップの豊胸術、脂肪吸引術も受けられました。現在はモデルとして頑張っておられるようです。その方から頂いたお礼のメールの中に「先生は私の創造主です。」という言葉が気に入って今も大切にパソコンの中に保存しています。

Vol.6 ご主人の浮気の原因がバストにある?

美しくて豊かなバストはいつの時代も洋の東西を問わず女性ばかりでなく男性にとっても憧れの的です。私が美容医療の世界に長年いて感じるのは、女性のバストに対する強い「憧れ」と「こだわり」です。最近の女性の目覚しい美意識の向上と美容医療への関心が益々その傾向を強めているようです。人にはそれぞれ色々な悩みがあるものですが、女性のバストに対する思いは男性からは到底想像も出来ないくらいに強いものがあることを改めて感じたお話です。

42歳の女性がバストのご相談で当院に来院されましたが、外見は大変に若々しくて美容外科医の私の目から見ても30歳位にしか見えません。ところがお話は「20代の頃は大きさも形もキレイで張りもあったのに、2人の子供を出産して授乳をしたら垂れて小さくなってしまって今は見るも無残でとても悲しいです。」とすっかり自信をなくされている様子でした。

本当は、垂れて小さくなったバストは2人のお子さんを育てて来られた母親の証であり誇るべきものです。文学の世界でも「たらちねの(垂れ乳の)」は「母」を表す枕詞です。私はいつも患者さんのご相談やお話を徹底的に聞くことにしていますので、この方もカウンセリングがかなり長引いてスタッフが時間を心配していましたが、詳しく聞いてみると原因はご主人の浮気にあったようです。この女性は、ご主人の浮気の原因が自分のバストにあると結論された訳です。その希望はバストを以前のような若々しく張りのある状態に戻すということです。まさに"Mission imposible"です。

現在の状態は、元々大きかった乳腺と乳腺脂肪が授乳後に縮小したため伸びた皮膚や周辺組織とのアンバランスが原因のため、手術は過剰になった皮膚を切除しながらバストの中身を人工乳腺(バッグ)で増大する方法でマストペクシー(バストリフトアップ術)と豊胸術を同時に行うことに決定しました。(次の記事に続く)

(前の記事の続き)ご主人の浮気が原因でバストの手術を決心された42歳の女性は、マストペクシー(バストリフトアップ術)と豊胸術を同時に行うことになりました。女性のバストは乳腺と乳腺脂肪で構成されており、授乳時一旦大きくなった後は年令とともに小さくなって垂れ下がってしまいます。今回の手術では、先ず伸びてしまった皮膚を切除すると同時にその傷痕を利用して豊胸術バッグを入れる方法です。マストペクシーや乳房縮小術には数多くの方法がありますが、余剰の皮膚を切除しつつ自然で美しいバストの形を作るのは中々難しく、同時に豊胸術を行うために術後の血行障害や傷痕など高い技術と長い経験が必要な手術の一つです。

特にこの方の術前のデザインには長い時間をかけました。切除する皮膚の量と位置で乳頭乳輪のリフトアップの位置やバスト全体の形が決まるからです。豊胸術には最新のコヒーシブシリコン(外膜が破れても漏れない凝集性シリコン)のスーパーアナトミカルタイプを用いました。手術は先ず控えめに皮膚を切除して、乳腺の下にスペースを作成してバッグを入れ、バスト全体のバランスを見ながら少しずつ修正していくという細かい方法です。

長い時間の手術でしたが、無事終了し麻酔から覚めた時に患者さんが言われた「きれいな胸になった?」という言葉は今でも私の耳に残っています。今回の手術ではバストに対する「こだわり」と「思い」を強く感じました。結果は期待に応えることが出来たようで、検診時には表情まで自信に溢れて輝いて見えました。確かに美しいバストは輝く女性を作りますが、ご主人の浮気がその後どうなったのかは分かりません。

Vol.7 可愛いミニやショートパンツがはけないんです

今回の患者さんは23歳の女性で、痩身のご相談に来院されました。中学・高校とバレーボールをされていましたが、やめてから徐々に体重が増加してきたとのことで、18歳の頃47kgだった体重は現在58kgになってしまったそうです。

「増えた皮下脂肪の殆どが脚に付いちゃったみたいで、可愛いミニやショートパンツがはけないんです」とのこと。診察と同時に超音波検査を行なったところ、スポーツをされていたためか大腿部・下腿部はかなりの筋肉量で、その上に体重増加による皮下脂肪がついていて、きゃしゃな上半身に比べてかなりの下半身肥満の状態になっていました。お話では色々なダイエット法やエクササイズ器具などを購入して試されたそうですが、すぐにリバウンドしたり、一番細くなりたい大腿部・下腿部に殆ど効果がなかったとのことでした。

現在の痩身術にはカーボメッドやメソセラピーなど炭酸ガスや特殊な薬剤を皮下脂肪層に注入して、脂肪を分解代謝する方法もありますが、この患者さんはカウンセリングの結果、効果が最も確実な脂肪吸引法に決定しました。これはよく知られているように、カニューレという細い吸引管で皮下脂肪を吸引する方法ですが、技術と経験に加えて、皮下で行う彫刻にも例えられるくらいに、美容外科分野では美的センスが最も必要とされる手術です。(次の記事に続く)

(前の記事の続き)さて患者さんの脂肪吸引の手術日がやって来ました。当日の朝、偶然に患者さんとエレベーターで一緒になりましたが、「昨夜は緊張してよく眠れませんでした。」とのこと。しかし睡眠不足のためか却って手術中は緊張がほぐれたようです。

術前にもう一度簡単に手術の説明をした後、身体にデザインを描くのですが、私のデザインは先ず脂肪吸引部を詳細に観察して脂肪の厚さやその下の筋肉を確認して、体表に綿密な等高線を描いて行きます。前回もお話しましたが、脂肪吸引とは人の身体の彫刻そのもので、技術と経験はもちろん美的センスが最も要求される芸術のようなものです。一般に大腿部で最も脂肪が目立つ部位は、脚の付け根の内側上部と外側上部及び膝の内側です。麻酔は硬膜外麻酔法で術部のみ無痛にするため途中で経過を見ることも可能です。現在は直径2mm以下の細いものから太いものまで様々な種類の吸引管を用いて、脂肪層の深層から浅層まで非常に細かく丁寧に吸引して行うために術後の凹凸も殆どありません。

「どうしても可愛いミニやショートパンツをはきたいんです!」というこの女性の夢を叶えるために、途中で何度も色々な方向から彫刻(?)の形を確認し吸引管の入っている深さを確かめながら3時間の手術に神経を集中しつつも、患者さんと色々なお話をしながらの楽しいひと時でした。

脂肪吸引は彫刻のマラソンのようなもので、患者さんから4kgの脂肪を吸引すると主治医は2kgくらい痩せますが、1ヵ月後の検診にこの患者さんが可愛いショートパンツで嬉しそうに来られて、「せんせい、本当にありがとうございましたぁ」というお礼の言葉で、3時間マラソンの疲れも吹っ飛んで報われた気分になりました。

Vol.8 今の自分の不自然な胸を見られるのが恐怖です

今回の患者さんは37歳の女性で10年ほど前に他院で豊胸術を受けられましたが、残念ながら理想通りにはならなかったとのことで来院されました。カウンセリングルームには沈んだ表情の女性がお子さんと一緒に待っておられました。何か事情がありそうです。こんな時私は徹底的に時間をかけて詳しくお話を聞くことにしていますが、この方はゆうに1時間を超えました。

この女性は離婚後5年たってやっとお付き合い出来る男性と巡り合えたそうですが、「今の自分の不自然な胸を見られる時が来るのが恐怖です。本当にキレイで自然な胸になるのでしょうか」と不安そうに訴えられました。診察してみるとこの方の豊胸術は生理食塩水バッグを大胸筋下に入れる方法で、以前わが国では一般的に行なわれていた方法です。手技が比較的簡単なため短時間で終わりましたが、大胸筋下を広範囲に剥離するために術後の痛みが強く、3ヶ月間の痛みを伴うマッサージが大変でした。もちろんある程度良好な結果も得られましたが、筋肉の下にバッグを入れるため固く張った感触になることと胸や腕に力を入れるとバッグが圧迫されて不自然に変形するなどの欠点も多くありました。

この方はマッサージの過程でスペースが狭くなってバッグが上に上がってしまったため、バストの上部が膨らんで元々の乳腺部分が下がって垂れた状態になっていました。感触も非常に固くて最悪です。この外見と感触ではこの女性が悩まれるのも無理はありません。(次の記事に続く)

(前の記事の続き)今回の悩める37歳の女性は、10数年前に入れた生理食塩水バッグを取り出して代わりに乳腺下に最新のコヒーシブシリコンバッグを入れることにしました。美容医療に携わっていていつも感じるのは、女性のバストに対する切実な思いと強いこだわりです。女性が豊胸術の結果に求めるのは、豊かで美しい外観はもちろん、柔らかな感触や自然に流れる動きなど非常に繊細です。特にこの女性は再婚を機に手術を決心されたようで、相手の男性のためにも私の責任は重大です。カウンセリング時の「今の自分の不自然な胸を見られるのが恐怖です。キレイで自然な胸になるのでしょうか」という不安そうな言葉が私の脳裏に残りました。

手術は新しい傷を増やさないように前回と同じ腋の下を3~4cm切開し、大胸筋と乳腺の間を丁寧に剥離して新しいスペースを作成した後、大胸筋下の生理食塩水バッグを取り出しましたが、再手術のため側胸部の癒着が強く剥離は中々大変です。その後に大きさが自由に変えられるテストバッグを挿入し、患者さんに実際に見て頂きながら新しいバッグの大きさを決めて行きます。取り出したバッグの大きさは175ccでしたが、一回り大きくしたいという患者さんの希望で新しいバッグはスーパーアナトミカル型コヒーシブシリコン250gに決定しました。実際にバッグが入ったバストを見た時の患者さんの喜びと安堵の混じった表情は今でも忘れられませんね。

入れ替えの分だけ腫れは少々長かったものの術後の経過は大変に良好で、1ヶ月後検診の時には見違えるような素敵なバストになっていて私も一安心しました。当院ではバスト術後患者さんに年1回の超音波検査をお勧めしていますが、1年後に来られた時に男性の方が同伴されていたので、「めでたくご結婚されましたか?」と尋ねるとうなずきながら「主人が余りにも私のバストのことを美乳だといってほめるものですから、つい本当のことを言ってしまいました。」とのことでした。

「いつまでもお幸せに。。。。。」と言って、お二人を見送りました。

Vol.9 こんな美人で可愛い女子高生に一体何の悩みがあるのかな?

今回の患者さんは17歳の若い女性です。カウンセリングルームに入ると可愛いセーラー服姿の女子高生がお母さんと一緒に待ってみえました。目が大きくて鼻筋の通った端正な顔立ちに長いストレートヘアーが印象的です。最近の若い方には珍しくとても礼儀正しくて、わざわざ立って挨拶をされましたが、身長も170cmはゆうにありそうです。こんな美人で可愛い女子高生に一体何の悩みがあるのかな?と思ってカルテに目を通すと、相談内容が「小顔の相談」となっていました。

カウンセリングの前に緊張をほぐすために「学校は楽しいですか?将来は何をするの?好きなアーティストは?」などという雑談などを交えながらご本人のお話を聞くのですが、何と小中学校の頃から回りから「ホームベース」とか「はいり」とか言われてからかわれたそうです。幸い持ち前の明るい性格とバスケット部のキャプテンでクラスメートから慕われていてイジメなどには遭わなかったとのことですが、それでも顔の輪郭のことを言われるととても辛い思いでいつも傷ついていた自分を必死で隠していたと打ち明けられました。

実際に長い綺麗な髪の毛を上げて頂いて顔の輪郭全体を見てみると、まさに「天は二物を与えず」の通り、整った目鼻立ちを台無しにするかのように張り出したエラと頬骨がとても目立っています。顔面の骨が出ていると顔が大きく見えるばかりでなく、ゴツゴツとして骨ばったイメージを与えます。一般に日本人をはじめアジア人はヨーロッパ人よりも体格に対する頭蓋骨の比率が大きいばかりでなく下顎角(エラ)と頬骨が張り出している場合が多いのですが、折からの小顔ブームで最近はこのような相談がとても増えています。X線検査などの結果、この可愛い女子高生の手術は下顎角形成術(エラ削り)と頬骨縮小術(頬骨削り)を同時に行なうことになりました。 (次の記事に続く)

(前の記事の続き)通常エラ削りの手術は口腔内粘膜を切開して下顎角(エラ)を切除するのですが、器具を用いても開口に限度があるために手術部分の視野が非常に狭く、その中へ特殊な器具を入れて手術を行なうために、最新の技術と長年の経験を持ってしても安全の範囲では大きく骨を切除することは中々困難です。この患者さんは下顎角がかなり大きなボリュームで張り出しているために、限界まで大きく広く骨切りするために皮膚外側からのアプローチにしました。

この術式はエラの下の皮膚の部分を2.5cmほど切開するのですが、傷痕は3ヶ月ほどで殆ど目立たなくなります。この小さな切開口を上下に移動させて骨膜下を広範囲に剥離するために、付着する筋肉群を完全に剥離出来る上、骨切りの範囲もオトガイ部(アゴの前方)から角部(エラ)までを直視下で広範囲に安全でスムースに出来ますが、慣れるまでにかなりの経験を要するため一般的には余り行なわれていません。頬骨削りは口腔内切開と耳前部頭髪部を1cm切開で頬骨を骨切りして内方へ移動する術式で、これも傷痕は殆ど分かりません。

手術当日はさすがに緊張してみえましたが、ご希望のJ-Popsがかかるオペ室に入ってからは、「これで長年の悩みが取れます。先生、宜しくお願いします。」という女子高生らしくない(偏見かな?)礼儀正しい言葉と落ち着いた態度には感心しました。手術は計画通りに進行し4時間に及ぶ大手術でしたが無事終了しました。そう言えば、たった2.5cmの小さな傷口から長さ9cm巾2cmの大きな骨の塊が出てきたのを見て、麻酔科の先生が「こんな手術は初めて拝見しました。素晴らしいですね!」と言ってくれた褒め言葉に、お世辞に弱い私は大変良い気分でしたね。

その後、患者さんは経過も順調で3ヶ月検診は今まで出来なかったアップの髪型で来られましたが、エラと頬骨の出っ張りがなくなり顔が小さくソフトな印象になっただけでなく、端正な目鼻立ちともとてもバランスが良くて173cmの長身の姿がキラキラと輝いているようでした。

その時に患者さんからお礼に(?)携帯のストラップを頂きましたが付けるのが何となく気恥ずかしくてそのままになってしまいました。何年か後で有名なファッション雑誌のページを飾る彼女を見つけた時、私自身とても嬉しい気持ちになり心の中で「頑張ってね。」とつぶやいていました。

Vol.10 絵が得意な少年時代から、父親の病気で医学の道へ

今回は、このコーナーで自分自身のお話をしようと思います。私は医療に携わって25年、美容医療に携わって20年です。私の母方には名古屋大学附属病院の院長になった親類がいますが、それ以外は医療とは無縁の家庭で育ったため、中学時代は外交官に、高校時代は建築家になるのが夢でした。

小さい頃から絵を描くのが好きで、部屋に閉じこもって当時人気だった「鉄腕アトム」や「鉄人28号」「エイトマン」などのマンガの主人公の絵を真似て描いたり、写生大会では地元の町並みや自然の風景画を描いていつも入選し県大会や全国大会まで行っていたので美術にはかなり自信がありました。また母方の祖父は大正時代に東京で本格的に絵画の勉強をした人で、孫の私がその才能を受け継いでいると皆に言われたため、私もすっかりその気になって将来は画家になろうと思ったくらいです。

高校生の時に大阪で開かれた万国博を見に行って、東芝のパビリオンを設計した黒川紀章氏に大変興味を持ちました。現在では知らない人はないくらいに多方面で有名ですが、当時は新進気鋭の愛知県出身の建築家ですでに海外でも活躍されていました。その斬新なデザイン性やアイデアに、高校生だった私は非常に感銘を受け、自分の美術の才能(?)を生かして彼のような建築家になって世界で活躍してみたいと考えるようになりました。

それが医学の道を志すことになった最大の原因は父親の病気でした。当時は現在のようなCT、MRIや気管支ファイバースコープなどの最新の医療機器もなく、日頃から咳や痰が多かった父親は重症の肺気腫と診断され、闘病生活が始まりました。家族の一人が病気になることは大変なことですが、まして一家の主が病に倒れれば精神的経済的負担は大変なものです。しかし私はB型人間で楽観的だったせいか、父親の見舞いに行くたびに主治医の先生とすっかり親しくなって弟のように可愛がってもらいました。

この36歳の呼吸器の先生は、熱血先生の典型のような人でいつも医局が自宅のような生活をしていました。休日に医局に遊びに行くと机の上には医学書や書類などが高く積まれて、机の下には所狭しと貰い物届け物などが置かれている、時にナースが入院患者のカルテを持って指示をもらいに来たり、電話が鳴って外来へ呼ばれたまま戻らないので私が帰ろうとしていると、汗だくになって来て 「残念!DOA(救急車で到着時死亡)が入って救急蘇生したが助からなかった、、」 当時の私はまるでテレビドラマを見ているようでした。凄い世界だなと感じると同時に私もこんな世界で生きてみたい、そして父親のように病気で苦しむ人々やその家族を救って少しでも役に立ちたいと考えるようになりました。今から30年以上前に抱いたこんな気持ちが現在の自分の出発点です。(次の記事に続く)

Vol.11 天国の父親からのエール?最初の患者さんが全く同じ病気だった

(前の記事の続き)昭和50年に岐阜大学医学部へ入学した私は、父親の闘病生活の中家庭教師のアルバイトや大学の勉強に追われて、忙しいながらも充実して思い出多い学生生活を送りました。その間多くの友人や沢山の知人に恵まれて、ある家庭教師の家では3姉妹を上から順番に教えることになり、夕食、夜食を頂いた上にお風呂まで入ってまるで家族同様の親しい付き合いになりました。当時は可愛い女子高生でしたが、私が2年前に開業した時には、お子さんが大学入試を控えて忙しい時期に真っ先にお祝いに駆けつけてくれました。

そんな学生生活の中で4年半の闘病生活の末父親が亡くなりましたが、その最期の場面は今でもはっきりと脳裏に焼きついて30年を経ても消えることはありません。大学卒業後、父親の病気や主治医だった熱血医師の影響もあって岐阜大学第2内科(循環器及び呼吸器内科)へ入局しましたが、研修医として最初に受け持った患者さんが、父親と同じ歳で同じ病気で病態もよく似ていて不思議な運命を感じました。その患者さんが徐々に重症化し呼吸困難のためレスピレーター(人工呼吸器)を装着する頃になると、病院の医局に寝泊りする日が続き私がフラフラになっていると、ご家族から「先生大丈夫ですか?少しは休んで下さい」と逆に心配される始末でしたが、ご家族の気持ちが手に取るように分かって頑張ったものです。

私の体力の限界を知っていたかのように静かに息を引き取られた患者さんの回りで悲しむご家族の姿に以前の自分をオーバーラップさせて、これはきっと天国(or not?)にいる父親が医師としてスタートを切った私へのエールであったに違いないと思いました。(次の記事に続く)

Vol.12 タバコを吸って心筋梗塞で死ねば本望!

(前の記事の続き)こうして私の医師としての人生がスタートしましたが、物語やドラマと違って現実の医療の世界は非常に忙しくて過酷で大変です。私が入局した岐阜大学附属病院第2内科は循環器と呼吸器や腎臓が専門の病院最大の科で、心筋梗塞や狭心症、急性心不全・呼吸不全など多くの患者さんが緊急で入院されて来ます。特に研修医期間中には色々な種類の難しい病気や重症の患者さんの主治医が順番で当てられます。

当時の第2内科は、学者らしくて温厚な教授、義理と人情味に溢れた組の親分のような助教授、そして留学経験も豊富でダンディーな講師のいる特徴ある科で、その自由な雰囲気の中、私は忙しくも楽しくてとても充実した日々を過しました。今にして思えばまだ未熟ながらも純粋で熱血感溢れた青年医師(?)というところです。2年間の研修医時代に受け持った患者さんのことは印象が強く今でもハッキリと覚えていますね。

ある会社の経営者で60代の男性が、狭心症発作で入院されて心臓カテーテル検査を受けられました。心臓の筋肉に酸素を送る冠動脈という血管が動脈硬化などで狭窄して細くなると心筋が酸素不足に陥り狭心症症状が起き、閉塞してしまうと心筋梗塞になって生命の危険や後遺症が残ります。この患者さんは検査の結果、左冠動脈に90%の狭窄が2箇所発見されたため、当時主流であったバルーン拡張術(現在はステント留置術)を行なって血管を拡げることが出来ましたが、この患者さんは1日40本のヘビースモーカーでした。

喫煙は冠動脈硬化の最大の要因で当然即禁煙です。ところがこの人生経験の豊富な患者さんは、「先生、わしは若い頃に苦労して会社を興して今まで頑張って一代でここまで大きくして来ました。酒もゴルフもせず、これといった趣味もない。楽しみと言ったら仕事の合間のタバコだけです。誰に何と言われようとこれだけは辞められません。タバコを吸って心筋梗塞で死ねば本望ですよ。」と言って、当時若かった私の注意などは全く聞いてくれそうにない雰囲気でした。(次の記事に続く)

(前の記事の続き)私の再三の注意にも拘らず、「タバコを吸って死ねば本望」と言って禁煙されなかった狭心症の患者さんは、心臓カテーテル検査とPTCA(経皮的冠動脈形成術)を受けて無事に退院されました。

その後は胸痛も消えて外来へ通院されていましたが、その年の11月に突然救急車で運ばれて来られました。当時は携帯もなく医師は大抵黒い大きなポケベルを持っていましたが、アルバイト先の病院で当直していると早朝にポケベルが鳴って来ました。第2内科(循環器内科)ナースステーションへ電話をするとあの患者さんが救急搬送されるとのこと。狭心症や心筋梗塞が晩秋や初冬の早朝に多いのは、この時期体が寒さに慣れておらず、早朝には血管が敏感で攣縮を起こしやすいのが原因と言われています。

着いてみると患者さんは、殆ど意識がなく呼吸も微弱で非常に危険な状態でした。直ぐに救急蘇生をしながら心カテ室へ直行し、私がAMBU(人工呼吸バッグ)を押しながら心カテ検査が始まりました。結果は前回と別の部位の完全閉塞による心筋梗塞でした。冠動脈に何度も血栓溶解剤を流すと僅かの再開通が見られ、PTCAによってある程度の血流が流れるようになりました。その後昇圧剤で血圧も上がり呼吸も安定し意識も回復して来ました。

こうしてまさに九死に一生を得た患者さんが、最初に言われた言葉は「先生、そろそろタバコを止めんといかんな」でした。私は耳を疑いましたが、今回の発作が余程苦しかったのはナースカルテの「口から心臓が飛び出るくらいに苦しかった」という言葉で分かりました。結局ある程度の後遺症が残りましたが、患者さんは以後きっぱりと禁煙をされ健康にも大変気を遣われて87歳まで元気に生きられました。

亡くなられた後で奥様から私宛にお礼の手紙と立派なライターが送られて来ました。文面には「主人が、ここまで長生き出来たのはあの若い(?)先生のおかげだと口癖のように言っておりました。このライターは20年前に心筋梗塞を起こす直前主人が買ったまま使わずに記念に大切にしていた物で、自分が死んだら是非小木曽先生に渡してくれと申しておりました。」 私はタバコを吸いませんが、ライターは今も大切にしまってあります。

Vol.13 研修医は実力と経験不足を体力と情熱でカバーせよ!

私の研修医時代は今から25年も昔のことですが、振り返ってみると、忙しいながらも毎日が新鮮でとても充実した日々でした。私が所属していた岐阜大学附属病院第2内科(循環器・呼吸器科)は、病院では最大の科でしたが、自由で個性と人間味豊かな雰囲気に溢れていました。

研修医は、重症疾患をはじめ大学病院ならではの様々な難しい疾患の患者さんの主治医を勤めながら、毎日の外来問診や尿検査などのノルマをこなし、時には関連病院へ外勤や夜間の当直勤務、会社・銀行などの事業所検診など、非常に忙しい中で色々な臨床の機会を経験しました。無論、若い新米医師の実力不足と経験不足をカバー出来るのは体力と情熱くらいしかありません。

この時期に自分のその後の人生を決定することになった多くの経験や色々な人々との出会い、思い出深い沢山の患者さんなど、今も私の心の中で消えることなく鮮明に残っています。数え切れないほど多くの患者さんの生死の場面に立ち会い、ドラマ以上にドラマチックなシーンにも数多く遭遇しました。

また大学病院から派遣されて色々な病院へも勤務しました。最新鋭の高度医療機器の揃った大きな病院では外来患者も多く、当直中は夜中でも救急車が何度も入って殆ど休む暇もありません。TVドラマのERはadrenergicに少々やり過ぎの感じですが、それに近いことは時々あります。ようやく救急外来から解放されて当直室へ戻ると、今度は入院患者さんの状態が急変して病棟へ駆けつけたりで、当直医師用の夕食を3回目のレンジにかけて食べる頃にはさすがに味もなくなっていましたが、空腹の胃には結構なご馳走に思えたものです。

週に1回、愛知県三河大野にある病院へ当直と翌日の診療にも行きました。ブッポウソウで有名な鳳来寺山や湯谷温泉が近くにある山間の病院ですが、スタッフばかりか患者さんも地元の顔見知りで、その家族的な雰囲気が私はとても気に入りました。私の地元も岐阜県瑞浪市の田舎だったせいかも知れませんが、、、、最近の都会の病院にはない何かしら懐かしさや温かさがありました。しかし、驚いたのは往診の時でした。(次の記事に続く)

Vol.14 奥三河の病院で往診途中にサルの親子に遭遇!

(前の記事の続き)三河の山間にあるその病院はベッド数60床ほどの私立病院でしたが、入院患者さんは寝たきりや慢性疾患の落ち着いた状態で、ご家族の都合などで病院に長期間あずけられた私よりも元気(?)なお年寄りの患者さんばかりでした。

当時は厚生省の医療行政も現在とは比較にならないほど緩やかだったため他の一般病院も状況は同じで、患者さんの中には5年以上も入院したまま病院に住み着いてしまって盆暮れ正月だけ家庭へ里帰り(?)している方などもいて、病院のことは職員やナースよりもその患者さんに聞いたほうが詳しく分かったものです。

前述の通りこの病院では、外来患者・入院患者・職員などが皆知り合いで、家庭的な雰囲気の中とても温かくのんびりとしたものでした。当直中には救急患者もなく、翌朝医師当直室で朝食を食べて、9時からはそれ程多くない外来患者さんを診察して、合間に心エコー、腹部エコー検査や胃カメラ検査など、当時は私は循環器呼吸器専門でしたが色々な病院へ勤務するうちに一般内科ばかりでなく整形外科、耳鼻科、皮膚科、眼科なども必要に応じて何でも診られるようになってしまいました。

そして午後からの往診は病院の車でナースと一緒に出かけるのですが、患者さんの家は山間や畑の中に点在していて実にのどかな風景です。しかし私はそこで思いもよらない光景に遭遇しました。「道路の端に何かがうずくまっている!」 何とそれは子供を抱いた野生のサルだったのです。往診車の中からよく見ると母ザルの腕に抱かれた子ザルは何となくぐったりとしていて眠っているのではなく車に引かれたか木から落ちたのでしょうか?

これがおとぎ話なら、私が近寄ってその子ザルの手当てしてやって元気になり、後で恩返しに病院の前に山ほどの柿を持って来てくれたとか、もっと現実的に数匹のサルが岐阜大学の実験動物として自ら協力を申し出たとか、、、実際は地元のナースの「子ザルを連れた母ザルは特に危険です」という忠告に即従って、子ザルの無事を祈りながらその場を後にしましたが、私の人生で野生のサルをこんなに近くで見たのは最初で最後です。(次の記事に続く)

Vol.15 往診はお年寄りとの心温まる時間でした。

(前の記事の続き)奥三河の病院の往診は、山間や畑の中に点在する家を訪ねて寝たきりのお年寄りを診察するのですが、殆どの患者さんは「no change(変化なし)」の所見です。看護師さん(当時は看護婦さんと呼んでいました)が注射や点滴をした後で、お茶やお菓子を頂きながら家族と一緒に病気の話や世間話などして、いつも忙しい診療に追われる大学病院や都会の大病院の勤務からは想像もつかないくらいにのどかなものでした。

雑談の時間の方が診察時間よりも長いくらいでしたが、実は患者さんも家族も雑談の方を楽しみにしていたのかも知れません。私自身は実家や親戚が旧い家で、幼少時からお年寄りに囲まれて育ったせいか、お年寄りにはいつも自分の祖父母のような親近感を感じていました。

そんな私の気持ちが伝わるのか、赴任先やアルバイトで勤めた色々な病院で、当時若くて孫のような私を大変に気に入って可愛がって(?)くれて、私の外来は沢山のお年寄りでいつも込み合っていたものです。何故かお爺さんよりもお婆さんの方が多かったのは、私が母方の実家のお婆ちゃん子だったせいか、、それとも女性の方が男性よりも平均寿命が長かったためか、、、

当時の往診患者さんの中でよく憶えているのは僧帽弁狭窄症という病気のお婆さんでした。心臓弁膜症で根本的には手術が必要ですが、お歳もあり当時は内科的な治療が一般的で寝たり起きたりの生活を送ってみえました。お爺さんが献身的に世話をしていてとても仲のよい微笑ましいご夫婦で、私も往診が楽しみでしたが、「この間は野猿の群れ(やっぱり!)が畑を荒らしに来て怖かった」とか離れて暮らしているお子さん達のお話などをよく聞きました。

私の大学病院の勤務変更で、最後の日となった往診に行くと、お二人が目を真っ赤にして別れを惜しんでくれました。私も思わずもらい泣きしそうになりましたが、「またいつの日にかこちらへ来る機会には必ず特別に往診しますからね。」と言ってお別れしました。その後何年か経って奥三河へ行く機会があったのですが、残念ながらすでに約束を果たすことは出来ませんでした。

Vol.16 美しい山々と心温まる人々、そして白衣の天使

奥三河の病院の院長は、岐阜大学第2内科(循環器科)の私の先輩で、気さくで飾らないTVドラマの無医村の医師Drコトー(ちょっと違うかな?)という雰囲気の先生でした。そうすると私の役は大学から派遣された血気盛んなまだまだ経験不足の若手医師というところです。 大学病院の重症患者さんの状態が悪化すると、パートの病院へ行くのが遅れて夜になったり、勤務途中の夜中に大学病院からの連絡で急遽呼び戻されてしまったり、様々な無理をお願いした記憶です。

仏法僧で有名な鳳来寺山のふもとにあって、スタッフも患者さんも近所の顔見知りという感じでいつも和気あいあいとした雰囲気に包まれていました。大学病院の看護師は勉強会や研究会などで確かによく勉強しますが、自信もキャラも強くなるためか当時は婦長クラスともなると研修医からは皆恐れられていたものです。 この病院では、肝っ玉母さんのような婦長さんや年令の割りに若々しい看護師さんなどもいて、仕事の合間に出る会話はご主人やお子さんの話夕飯のメニューなどです。たまに家庭生活のうっぷん晴らし(?)からか、食事会やカラオケ飲み会があって私も飛び入りでよく参加しましたが、私にとっても大学病院での忙しく喧騒に包まれた生活の気分転換に大いになったものです。

ところで、どんな病院にでも白衣の天使のようなナースが一人はいるものです。田舎の病院には珍しく若くてとても可愛い看護師さんがいて、患者さんだけでなくスタッフからも可愛がられて人気がありました。 私が感心したのは、彼女は自分のことを鼻にかけることが全くなくて、育った環境からかどんなお年寄りにも大変優しいことでした。当時私も30歳と若かったせいか、彼女が私の外来や往診に付いてくれたり、当直が同じだった日には何となく胸がときめいたものでした。 深夜の急患で忙しくて眠れなかった当直の朝、彼女が「先生、お早うございます。昨夜は大変でしたね。お疲れ様でした。」と笑顔で医局へ朝食を持って来てくれると、全ての疲れが吹き飛んでしまう気分でした。

何年間か週に一度、岐阜から車や電車で2時間かけてこの病院へ通いましたが、美しい山々の風景と人々の心の温かさが今でも私の思い出に残っています。

Vol.17 肺がん告知せず

このコーナーを始めてからちょうど2年になります。最近患者さんや色々な知り合いの方から「先生の医者冥利を毎月楽しみに読んでいます。」とか「あの話は○○病院のことですね、、」というメールやお手紙などを戴き、予想せず多くの方に読んで頂いていることが分かり、これからも頑張って書いて行こうと気分を新たにしました。

私は医師になってもう25年です。今までに数え切れない多くの患者さんを診て、沢山の人々と出会い、そして色々な経験をして来ました。時に悩み挫折してそれを乗り越えまた壁に当る、そんな人生の繰り返しでしたが、今でも目を閉じれば鮮明に蘇って来る数々の思い出深い患者さんや素晴らしい人々との出会いを通して、それら全てが医師として人間としての私の大きな財産であり誇りです。

今回は、以前もこのコーナーで「天国の父親からのメッセージ」でもお話ししたように、岐阜大学附属病院第 2内科で研修医時代に担当した患者さんのお話です。患者さんは当時30代の女性で肺癌でした。1年前に当科へ入院されて精査の結果、病理診断で腺癌と診断され3ヶ月間の治療されましたが、再発で再び入院されて来ました。肺癌は一般には男性の喫煙者に多いと思われがちですが、病理診断で4種類の型があり、男性喫煙者に多いのは扁平上皮癌というタイプで、この患者さんのように腺癌は喫煙とは関連なく男女の差もありません。この女性は、ご主人と可愛い小学生二人の女の子の4人家族でしたが、とても綺麗な方で、まさに美人薄命(健康な美人から文句が出そうですが、、)という第一印象でした。腺癌は扁平上皮癌と異なって咳や血痰の症状が出る発見時には既に肺全体に広がって手術適応にならないことが多いため、初回の入院時には抗がん剤投与による化学療法を受けられていました。今回は背中の痛みと全身倦怠感を訴えて入院されました。CT、MRIなどにて検査したところやはり肺癌の広がりが進行していて、加えて脊髄神経への転移と脳への転移が見つかりました。さて患者さんに何と説明するか、研修医で経験も浅かった私は大いに迷いました。現在は医療側にinformed consentの義務があり治療の協力を得る目的でもガンの告知をご本人にすることが多くなりましたが、当時の医療界では殆どしないことが一般的でした。(次の記事に続く)

(前の記事の続き)この患者さんのご主人とご両親には本当の診断と病状を詳しく説明し、今回の化学療法(抗がん剤療法)が効かなければ余命は3ヶ月から6ヶ月と告げました。ご両親は涙を流しておられましたが、ご主人はすでに覚悟していたのか黙って聞いていて最後に「子供のようにわがままな家内で先生にはご迷惑をかけますが、どうか苦しみだけは取ってやって下さい。」と言われた言葉に男らしさと潔さを感じました。お世辞にもイケメンとは言えないご主人に美人の奥さんが惹かれた理由に思いを巡らせながら、「出来る限りの手を尽くしますから」と答えました。当時の慣例で患者さん自身にはガンを伏せ、カビの一種による重症の肺炎と説明し「強い薬を使いますが頑張りましょうね。」と励ましました。

治療を開始しましたが、予想通り抗癌剤の効き目は悪くガンの進行は急速でした。20数年前、腺癌の最新の抗癌剤はシスプラチンという薬でしたが、投与後に腎臓を保護するため500ccの点滴を10本もしなければならず患者さんは大変でした。また化学療法には全身倦怠感や白血球減少による気管支炎や肺炎などの合併、腎障害肝障害など重大な副作用を伴います。しかも悪者ほどしぶといというか、ガン細胞は抗癌剤に対して容易に抵抗性を獲得する能力を備えているらしく、何回か投与していくうちに徐々に効果がなくなって来ます。効果判定のため撮影したX線やCTの結果を見ながら、益々進行して全肺野を覆い尽くすほどに拡大して行く体内からの侵略者を恨んで、一人夜中の医局で無念さと無力感におそわれたものです。

症状は咳、喀痰に加えて、脊髄神経への転移による激しい腰痛や体中の痛みのためモルヒネを使わざるを得ませんでした。毎朝大学病院の東7Fにある個室に回診に行く度に、「先生本当に私の病気治るの?」「痛いからどうにかして!」という悲痛な訴えに、私の気分も足取りも重くなったものでしたが、ある朝いつものように「お早うございます。気分は如何ですか?」と尋ねると、何と「いいです」という答えが返って来ました。いつもなら沢山の訴えが続くはずなのに、、、"あれ?どうしてしまったのかな?"(次の記事に続く)

(前の記事の続き)回診の度に色々な訴えを聞くことが私の日課になっていましたが、患者さんには肺がんを告知せずに重症肺炎と説明したため、病状や治療法など事実とは違う話をせざるを得ませんでした。何となく後ろめたさを感じながらも、がんの告知が患者さんの生きる希望を奪ってしまうという当時の医療の考え方に基づいて、これがご本人にとって幸せなんだと自分自身に言い聞かせました。 症状は急速に悪化の一途をたどり、食事が取れないためにIVHという太い静脈からの点滴栄養と胸腔に貯まった胸水を吸引するためにトロッカーという太いチューブを留置し、その他にも胃チューブ、膀胱チューブなど、治療としては不可欠とはいえ患者さんにとっては大変に苦痛な毎日です。

その朝病室を訪れると、いつもは端正な顔立ちが呼吸苦や全身の痛みに歪んでいたのに、その日は何故か急に静かな表情に変わっていました。まるで全てを悟り切ったような寂しさにも似た表情を見た時、死を覚悟されたのだと私は直感しました。 何とも言いようのない重苦しい雰囲気に言葉を失った私は、適当な言葉が見当たらず「頑張って良くなって来年お子さんの入学式に出ましょうね。」という到底叶いそうもない慰めを言いましたが、黙って頷いておられたのが印象的でした。

実際の医療現場は、テレビドラマよりも遥かにドラマチックです。いよいよ最後が近づき、病室にはご家族や親戚の方が沢山集まって患者さんを囲んでいました。二人の小さな娘さんが両側から手を握って誰に教えられた訳でもないのに「お母さんがいなくなってもケンカしないで二人で力を合わせて頑張るからね。」と言って、その傍らではお婆さんが手を合わせ必死に拝んでいました。病室ではモニターのアラームが鳴っていましたが、ついに波形は心停止を示してフラットになり、ピーというモニター音が響き渡っています。「残念ですがご臨終です。ご冥福をお祈り致します。」という私の宣告の言葉に、初めてご主人が涙を流されるのが見えました。周りでご家族や親戚の方のすすり泣く声が響くのを耳にしながら、大きな無念さと僅かばかりの達成感が入り混じった気持ちで病室を後にしました。

当時と比べると、現在は殆どの場合何らかの形でご本人にがんの告知をしますし、治療法やターミナルケアーの考え方も格段に進歩しましたが、今から20数年前のあの場面は、今でも私の脳裏に鮮明に蘇って来ます。

Vol.18 私の母はモダンガールだった!?

今回は、このコーナーで私の母親のお話をしようと思います。

母はもうすぐ85歳になりますが、最近7年間で腰部椎体固定術、右膝人工関節置換術、大腸手術、視床脳梗塞など、全身麻酔の手術を計4回、入院7回とまさに満身創痍ですが、記憶力と口は幸い私よりも遥かに達者で、今でも最新の携帯で絵文字を使ってメールを送って来ます。内容は私がこの歳になってもまだまだ世の中のことを知らない(?)と愚息を心配するメールです。本当に何歳になっても親とは有難いものです。

母は大正13年生まれで、いわゆる戦前、戦後の激動の時代を生きて来た一人です。岐阜県瑞浪市の田舎で代々続く地主の家に四姉妹の末子として生まれました。私は子供の頃から母親の実家へ遊びに行くのが楽しみでしたが、そこでは祖母が私を大変に可愛がってくれて色々な話を聞かせてくれました。実家は終戦後の農地改革で田畑を大分没収されましたが、まだ広い土地や山林が残り、築100年以上の大きな家の中には一体いくつの部屋があるのかよく分からない程でした。裏庭には蔵があり、裏山には明治か大正時代に山を掘って洞穴で作った年中一定温度を保てる大きな保存庫まであり、子供心ながらにこの家の重厚な伝統に感心したものでした。

祖母の話では、母は小さい頃から筆習字や文章が飛び抜けて上手く提出物はいつも一番に出していたとのことでしたが、残念ながら私にはそのDNAが遺伝しなかったのか、それとも父親に似たのか、、、いつもギリギリまでゆっくりとして提出間際になってから大慌てで始めてどうにか最後で間に合わせる私の性格を、母はつけた名前のせいだと今でも嘆いています。この癖はその後もずっと矯正されることなく、医師国家試験や学位論文提出の時も、そして今こうして雑誌社からせかされながらも締め切り間際になって必死で書いている現在まで殆ど変わっていません。

母は多治見高等女学校を卒業すると周りが花嫁修業を勧める中を、昭和初期にはモダンで憧れの的だった(=超イケテル?)ファッションデザイナーを夢見て、何と一人で東京へ行ったそうです。(次の記事に続く)

(前の記事の続き)昭和初期の当時は、現在と違って交通も不便で田舎は都会から遥かに遠く、若い娘が東京で一人暮しするなどとんでもないと母の東京行きは親戚中の大反対にあったそうです。ところがさすがに私の母の母親である祖母もまた進歩的だったようで、周囲を説得してアメリカの日本大使館に長く勤めた方の家でお世話になることになりました。母は少女の一時期を東京で過ごしたことで、田舎では到底得られないような多くの貴重な体験と知識を身につけて人生の大きな自信になったに違いないと思います。

その後太平洋戦争が始まり、世の中は混乱し戦況も悪化して東京空襲が始まったため、心配した両親が母を東京から呼び戻しました。結局母はその後デザイナーにはなれなかったのですが、もし戦争がなければ「森英恵」ではなくて「中村八重子」ブランドのファッションが世界を席巻していたかも知れないと、周囲からよく冗談を言われていたものです。実家に帰った後も、母はモダンガール(?)だったようで、当時戦況の悪化により国民生活は様々に規制され若い女性の服装もかすりの上着にモンペ姿が多い中で、洋服を着てさっそうと自転車に乗っていた母は当時の田舎ではかなり目立ったと思います。おかげで時々警察官に呼び止められて服装を注意されたらしいのですが、名前を言うと「あ~、中村さんところのお嬢さんかな。。気ぃつけて帰りんさい。」で終ったそうです。町会議員の祖父が警察署長と親しかったらしく、今なら官民癒着ですが当時はおおらかなものです。

終戦直後の昭和21年に、母は親同士が町議会で親しかった私の父親と結婚しました。12月の雪の降る中を白無垢姿の花嫁の行列に沢山の見物人が出来て、婚礼の儀式は夜が更けるまで続いたそうです。まるで時代絵巻かTVの篤姫の江戸城入りを連想しますが、実際は終戦直後の物資のない時代で準備が大変だったと祖母から聞きました。父の家も戦前は地主で色々な商売を手広くやっていたらしく、私が幼少の頃には家にまだ古びたビリヤードの台が残っていて、見よう見まねでキュー(ビリヤードの棒)を撞いているうちにテーブルの上のラシャ張りを台無しにしてしまいました。野球や卓球が盛んな当時に、ビリヤードのキューを撞いていたハスラー(?)のような小学生は他にいなかったと思います。(次の記事に続く)

(前の記事の続き)父親同士が町議会で親しかったことから母は終戦直後に嫁いで来ましたが、戦後に実施された農地改革によって地主だった両家は農地の大部分を失いました。戦後の農村社会の平等と民主化を目指して行われましたが、地主の側からすれば正当に引き継いで来た先祖伝来の土地を国に没収された上に小作農に分け与えるわけですから、個人の財産権が保証された現在の資本主義社会では到底有り得ない話です。もちろんこの政策が戦後日本の発展に寄与したことも事実ですが、その犠牲になった人々もいたわけです。

そんな状況で父母は多くの苦労をしたと思いますが、祖父小木曽駒三郎が残した家訓は「努力は己のためならず、常に世のため人のため。」という今の日本の政治家に聞かせたいものでしたが、それを引き継いで父は区長を母は地元の婦人会長を勤めたりして、85歳になった今でもボランティア団体などにわずかながらも寄付を続けています。

私の父親は重症の肺気腫から56歳でこの世を去りましたが、それがきっかけで私は医学の道に入りました。どんな家庭でも一家の主が病で倒れるのは大変なことで、母はその看病だけでなく精神的経済的な負担で本当に大変だったと思います。しかしいつの時代もやはり母は偉大で女性は強い!私の長い臨床経験からも、妻に先立たれた夫は身の回りの世話をしてくれる人がいなくなって、元気がなくなり寝込んでしまうことも多いのですが、夫に先立たれた妻は夫の世話をする必要がなくなるため、それまで家庭に縛られていた分を外に出かけたり旅行したりして元気に人生を謳歌している患者さんをよく見かけました。

私の母も全く同様で、1年して喪があける頃にはすっかり元気になって、女学校の同級生や知り合いと集まったり旅行したりして、海外旅行も何度かして大変に元気でした。

しかしその後、母親を待っていたのは厳しい痛みとの闘いの人生でした。76歳以後に全身麻酔の大きな手術を4回も受けましたが、医師の私ですら母以外にあまり聞いたことがありません。診断名は腰部脊柱管狭窄症と変形性膝関節症。第1回目の手術は腰椎椎弓切除術と膝人工関節置換術でした。(次の記事に続く)

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