(前の記事の続き)回診の度に色々な訴えを聞くことが私の日課になっていましたが、患者さんには肺がんを告知せずに重症肺炎と説明したため、病状や治療法など事実とは違う話をせざるを得ませんでした。何となく後ろめたさを感じながらも、がんの告知が患者さんの生きる希望を奪ってしまうという当時の医療の考え方に基づいて、これがご本人にとって幸せなんだと自分自身に言い聞かせました。
症状は急速に悪化の一途をたどり、食事が取れないためにIVHという太い静脈からの点滴栄養と胸腔に貯まった胸水を吸引するためにトロッカーという太いチューブを留置し、その他にも胃チューブ、膀胱チューブなど、治療としては不可欠とはいえ患者さんにとっては大変に苦痛な毎日です。
その朝病室を訪れると、いつもは端正な顔立ちが呼吸苦や全身の痛みに歪んでいたのに、その日は何故か急に静かな表情に変わっていました。まるで全てを悟り切ったような寂しさにも似た表情を見た時、死を覚悟されたのだと私は直感しました。
何とも言いようのない重苦しい雰囲気に言葉を失った私は、適当な言葉が見当たらず「頑張って良くなって来年お子さんの入学式に出ましょうね。」という到底叶いそうもない慰めを言いましたが、黙って頷いておられたのが印象的でした。
実際の医療現場は、テレビドラマよりも遥かにドラマチックです。いよいよ最後が近づき、病室にはご家族や親戚の方が沢山集まって患者さんを囲んでいました。二人の小さな娘さんが両側から手を握って誰に教えられた訳でもないのに「お母さんがいなくなってもケンカしないで二人で力を合わせて頑張るからね。」と言って、その傍らではお婆さんが手を合わせ必死に拝んでいました。病室ではモニターのアラームが鳴っていましたが、ついに波形は心停止を示してフラットになり、ピーというモニター音が響き渡っています。「残念ですがご臨終です。ご冥福をお祈り致します。」という私の宣告の言葉に、初めてご主人が涙を流されるのが見えました。周りでご家族や親戚の方のすすり泣く声が響くのを耳にしながら、大きな無念さと僅かばかりの達成感が入り混じった気持ちで病室を後にしました。
当時と比べると、現在は殆どの場合何らかの形でご本人にがんの告知をしますし、治療法やターミナルケアーの考え方も格段に進歩しましたが、今から20数年前のあの場面は、今でも私の脳裏に鮮明に蘇って来ます。