ブラジル、ペルーなど南米諸国でも最近は美容医療が非常に盛んで、1人当りが受ける美容外科手術数はアメリカがやはり世界のトップですが、第2位がブラジル、第3位がアルゼンチンというのは意外です。南米の方達と話していて感じるのは、美容外科医療が大変にポピュラーでオシャレ感覚に身近で気軽なことです。また日本では美容医療と言えば女性が殆どですが欧米南米では男性も気軽に来られます。
以前、お腹の脂肪吸引の相談にブラジル人のご夫婦が来られたので、さっそく奥様に向かってカウンセリングを始めたところ患者さんは何とご主人でした。
美容先進国のアメリカ、ヨーロッパ諸国はもちろん、韓国、中国はじめタイ、シンガポールなどアジア諸国では最近の10年間で美容外科医療がまたたく間に広がって、医療技術のレベルだけでなく手術人口も、もうすぐに日本を追い越す勢いです。その大きな原動力が、人々の「美しくなりたい。いつまでも若々しくいたい」という人間本来の欲求であり憧れと羨望です。
病気になってから治療するのが一般の治療医学であり、検診などで早い時期に発見するのが予防医学ですが、健康な方が自分の身体の気になる部分をより良くして満足を手に入れる美容外科医療は、幸せな人生を目指す一歩進んだ「幸福の医学」と言えると思います。
前にも述べましたが、国や民族によって美容の手術はかなり異なっていて、日本はじめ韓国、中国など東アジア系は顔の骨格も関係して一重の目の方が多いため、昔から美容外科の代名詞のごとくに圧倒的に多いのは二重の手術ですが、その他も目頭切開や瞼の皺取り、眼瞼下垂など目の手術が多く、一方アメリカなど欧米では、わし鼻や魔女鼻のように高過ぎる鼻や大き過ぎる鼻を小さく品の良い形にする手術が最も多いようです。日本では「目は口ほどにものを言う」と言う諺にもあるように目のイメージをとても大切にしますが、西洋では古くから悪魔や魔女などの邪悪で反キリスト教的な負のイメージに鼻が影響されているのかも知れません。次に日本よりも遥かに多いのは豊胸術、脂肪吸引そしてフェイスリフトです。特に最近多いブラジルなど南米の患者さんたちの手術希望は90%以上が豊胸術と脂肪吸引のみです。(次の記事に続く)
最近はクリニックに外国の方が数多く来院されるようになりました。一般にわが国の美容外科クリニックでは、コミュニケーションの難しさから外国人の患者さんを受け入れるところは少ないのですが、当院では私の知り合いからの紹介や口コミや患者さんからの紹介などで徐々に増えて来ました。
国籍は様々で、以前は美容外科先進国であるアメリカやヨーロッパの方が多かったのですが、その後経済の発展を反映して韓国や中国の方が増え、最近はブラジルやペルーなど南米からの方が多くなっています。特にブラジルの方は家族で来院されることが多く、待合室には賑やかにポルトガル語が飛び交い、深刻な悩み相談というよりもまるでカウンセリングを陽気に楽しんでいるようで、さすがリオのカーニバルの国です。シャイな日本人と違って感情表現も豊かで、オペ後の検診の際には “O,Doutor! Muito obrigada!!”と患者さんからいきなりhugされることもしばしばで、まさに医者冥利に尽きる(?)というところです。そんな時にはBGMをサンバやボサノバに切り替えて、私自身昨年から○○の手習いで覚え始めたポルトガル語とスペイン語を駆使して患者さんからは大うけしています。
美容外科手術も、民族による骨格や体型の違い国民性や美意識の違いから、受ける手術の種類はもちろん希望される結果も大きく異なってとても興味深いところです。
今回は、私のこのような経験をもとに世界の美容外科情勢を日本と比較しながら考えてみたいと思います。
日本では余り知られていませんが、最近の10年間で多くの国々の美容外科医療は飛躍的に進歩し世界中で美容外科人口が急増しています。ミョンドンの美容外科通りで知られる韓国の美容外科ブームは日本でも有名ですが、経済発展著しい中国の北京や上海、日本ではまだ馴染みの薄いベトナムや東南アジア諸国でも美容外科は大変な勢いで一般の人々の間に広がって来ています。日本ではリゾートとして有名なタイは、すでに日本を凌ぐ美容外科大国で、ツアーを組んで訪れるアメリカ人が最も多い国です。アメリカやヨーロッパは、もちろん世界の美容外科先進国ですが、患者数はこの10年でさらに増えてアメリカの年間の豊胸術は日本の10~15倍以上の30~40万人と言われています。(次の記事に続く)
(前の記事の続き)戦前のモダンガールだった母親も85歳になりますが、この10年間で脊柱管狭窄症の手術を2回、膝人工関節置換術、大腸がん手術、脳梗塞など手術や入院の繰り返しでまさに満身創痍です。高齢になってから全身麻酔の手術を4回も受けてよく頑張ったものだと感心しています。
手術の朝ストレッチャー(移動ベッド)で運ばれて行く母の手を握りながら、私と姉は祈るような気持ちで見送ったものです。私もかつては岐大病院で長年研究と臨床生活を送り、沢山の患者さんのドラマ以上にドラマチックな場面を多く見て来ましたが、自分の家族のこととなると日頃はなおざりにしている神様や仏様にすがってしまうのだから我ながら身勝手なものです。中でも母が78歳で受けた手術は腰椎3椎体をチタン製のプレートとスクリューで固定する手術で7時間にも及ぶ大手術でした。患者の家族として手術が終わるのを待つのは本当に長いもので、無事終了して岐大整形外科の清水教授から丁寧な説明と「予定通り大変にいい結果です」との言葉に心から安堵したものです。3年後の大腸がんの時には、さすがに家族一同覚悟をしましたが、私の岐大医学部の先輩で腫瘍外科助教授の杉山先生に執刀して頂き、幸い転移もなく経過も良好です。
最初の手術の後、母は朝夕1時間ほど仏前でお経を唱えて写経を毎日欠かさずに続けて来ましたが、何と入院中も病室で休まずに読経と写経を続けるため主治医や看護師さんたちから大いに驚かれ感心されました。その間に写経は千巻二千巻と増え続け、ついに京都妙心寺から全国初の女性ということで表彰して頂きました。現在も三千巻を越えて記録を更新中です。写経とともに母が打ち込んでいるのが千代紙細工です。最初は脳梗塞のリハビリのつもりでしたが、勉強して工夫するうちに上達して色々な会合に招かれて講習するまでになってしまいました。こうなると本人も益々やる気が出て、立体の花や金魚の飾り物や宝石箱から始まって、仏壇に置くマッチ箱はまるで芸術品!?で、色々な方に進呈して大変喜ばれています。(当院の患者様でご希望があれば差し上げます。)
母は様々な病魔にもめげずに、お世話になった人々に感謝していますが、私自身はこうして不肖の息子や家族が皆元気でいられるのも、母が一人で病気の苦しみを一手に引き受けてくれているからだと考えています。
(前の記事の続き)父親同士が町議会で親しかったことから母は終戦直後に嫁いで来ましたが、戦後に実施された農地改革によって地主だった両家は農地の大部分を失いました。戦後の農村社会の平等と民主化を目指して行われましたが、地主の側からすれば正当に引き継いで来た先祖伝来の土地を国に没収された上に小作農に分け与えるわけですから、個人の財産権が保証された現在の資本主義社会では到底有り得ない話です。もちろんこの政策が戦後日本の発展に寄与したことも事実ですが、その犠牲になった人々もいたわけです。
そんな状況で父母は多くの苦労をしたと思いますが、祖父小木曽駒三郎が残した家訓は「努力は己のためならず、常に世のため人のため。」という今の日本の政治家に聞かせたいものでしたが、それを引き継いで父は区長を母は地元の婦人会長を勤めたりして、85歳になった今でもボランティア団体などにわずかながらも寄付を続けています。
私の父親は重症の肺気腫から56歳でこの世を去りましたが、それがきっかけで私は医学の道に入りました。どんな家庭でも一家の主が病で倒れるのは大変なことで、母はその看病だけでなく精神的経済的な負担で本当に大変だったと思います。しかしいつの時代もやはり母は偉大で女性は強い!私の長い臨床経験からも、妻に先立たれた夫は身の回りの世話をしてくれる人がいなくなって、元気がなくなり寝込んでしまうことも多いのですが、夫に先立たれた妻は夫の世話をする必要がなくなるため、それまで家庭に縛られていた分を外に出かけたり旅行したりして元気に人生を謳歌している患者さんをよく見かけました。
私の母も全く同様で、1年して喪があける頃にはすっかり元気になって、女学校の同級生や知り合いと集まったり旅行したりして、海外旅行も何度かして大変に元気でした。
しかしその後、母親を待っていたのは厳しい痛みとの闘いの人生でした。76歳以後に全身麻酔の大きな手術を4回も受けましたが、医師の私ですら母以外にあまり聞いたことがありません。診断名は腰部脊柱管狭窄症と変形性膝関節症。第1回目の手術は腰椎椎弓切除術と膝人工関節置換術でした。(次の記事に続く)