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院長コラム

Vol.27 私の母はモダンガールだった!?(その2)

(前の記事の続き)昭和初期の当時は、現在と違って交通も不便で田舎は都会から遥かに遠く、若い娘が東京で一人暮しするなどとんでもないと母の東京行きは親戚中の大反対にあったそうです。ところがさすがに私の母の母親である祖母もまた進歩的だったようで、周囲を説得してアメリカの日本大使館に長く勤めた方の家でお世話になることになりました。母は少女の一時期を東京で過ごしたことで、田舎では到底得られないような多くの貴重な体験と知識を身につけて人生の大きな自信になったに違いないと思います。

その後太平洋戦争が始まり、世の中は混乱し戦況も悪化して東京空襲が始まったため、心配した両親が母を東京から呼び戻しました。結局母はその後デザイナーにはなれなかったのですが、もし戦争がなければ「森英恵」ではなくて「中村八重子」ブランドのファッションが世界を席巻していたかも知れないと、周囲からよく冗談を言われていたものです。実家に帰った後も、母はモダンガール(?)だったようで、当時戦況の悪化により国民生活は様々に規制され若い女性の服装もかすりの上着にモンペ姿が多い中で、洋服を着てさっそうと自転車に乗っていた母は当時の田舎ではかなり目立ったと思います。おかげで時々警察官に呼び止められて服装を注意されたらしいのですが、名前を言うと「あ~、中村さんところのお嬢さんかな。。気ぃつけて帰りんさい。」で終ったそうです。町会議員の祖父が警察署長と親しかったらしく、今なら官民癒着ですが当時はおおらかなものです。

終戦直後の昭和21年に、母は親同士が町議会で親しかった父親と結婚しました。12月の雪の降る中を白無垢姿の花嫁の行列に沢山の見物人が出来て、婚礼の儀式は夜が更けるまで続いたそうです。まるで時代絵巻かTVの篤姫の江戸城入りを連想しますが、実際は終戦直後の物資のない時代で準備が大変だったと祖母から聞きました。 父の家も戦前は地主で色々な商売を手広くやっていたらしく、私が幼少の頃には家にまだ古びたビリヤードの台が残っていて、見よう見まねでキュー(ビリヤードの棒)を撞いているうちにテーブルの上のラシャ張りを台無しにしてしまいました。野球や卓球が盛んな当時に、ビリヤードのキューを撞いていたハスラー(?)のような小学生は他にいなかったと思います。(次の記事に続く)

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Vol.26 私の母はモダンガールだった!?(その1)

今回は、このコーナーで私の母親のお話をしようと思います。

母はもうすぐ85歳になりますが、最近7年間で腰部椎体固定術、右膝人工関節置換術、大腸手術、視床脳梗塞など、全身麻酔の手術を計4回、入院7回とまさに満身創痍ですが、記憶力と口は幸い私よりも遥かに達者で、今でも最新の携帯で絵文字を使ってメールを送って来ます。内容は私がこの歳になってもまだまだ世の中のことを知らない(?)と愚息を心配するメールです。本当に何歳になっても親とは有難いものです。

母は大正13年生まれで、いわゆる戦前、戦後の激動の時代を生きて来た一人です。岐阜県瑞浪市の田舎で代々続く地主の家に四姉妹の末子として生まれました。私は子供の頃から母親の実家へ遊びに行くのが楽しみでしたが、そこでは祖母が私を大変に可愛がってくれて色々な話を聞かせてくれました。実家は終戦後の農地改革で田畑を大分没収されましたが、まだ広い土地や山林が残り、築100年以上の大きな家の中には一体いくつの部屋があるのかよく分からない程でした。裏庭には蔵があり、裏山には明治か大正時代に山を掘って洞穴で作った年中一定温度を保てる大きな保存庫まであり、子供心ながらにこの家の重厚な伝統に感心したものでした。

祖母の話では、母は小さい頃から筆習字や文章が飛び抜けて上手く提出物はいつも一番に出していたとのことでしたが、残念ながら私にはそのDNAが遺伝しなかったのか、それとも父親に似たのか、、、いつもギリギリまでゆっくりとして提出間際になってから大慌てで始めてどうにか最後で間に合わせる私の性格を、母はつけた名前のせいだと今でも嘆いています。この癖はその後もずっと矯正されることなく、医師国家試験や学位論文提出の時も、そして今こうして雑誌社からせかされながらも締め切り間際になって必死で書いている現在まで殆ど変わっていません。

母は多治見高等女学校を卒業すると周りが花嫁修業を勧める中を、昭和初期にはモダンで憧れの的だった(=超イケテル?)ファッションデザイナーを夢見て、何と一人で東京へ行ったそうです。(次の記事に続く)

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Vol.25 肺がん告知せず(その3)

(前の記事の続き)回診の度に色々な訴えを聞くことが私の日課になっていましたが、患者さんには肺がんを告知せずに重症肺炎と説明したため、病状や治療法など事実とは違う話をせざるを得ませんでした。何となく後ろめたさを感じながらも、がんの告知が患者さんの生きる希望を奪ってしまうという当時の医療の考え方に基づいて、これがご本人にとって幸せなんだと自分自身に言い聞かせました。
症状は急速に悪化の一途をたどり、食事が取れないためにIVHという太い静脈からの点滴栄養と胸腔に貯まった胸水を吸引するためにトロッカーという太いチューブを留置し、その他にも胃チューブ、膀胱チューブなど、治療としては不可欠とはいえ患者さんにとっては大変に苦痛な毎日です。

その朝病室を訪れると、いつもは端正な顔立ちが呼吸苦や全身の痛みに歪んでいたのに、その日は何故か急に静かな表情に変わっていました。まるで全てを悟り切ったような寂しさにも似た表情を見た時、死を覚悟されたのだと私は直感しました。
何とも言いようのない重苦しい雰囲気に言葉を失った私は、適当な言葉が見当たらず「頑張って良くなって来年お子さんの入学式に出ましょうね。」という到底叶いそうもない慰めを言いましたが、黙って頷いておられたのが印象的でした。

実際の医療現場は、テレビドラマよりも遥かにドラマチックです。いよいよ最後が近づき、病室にはご家族や親戚の方が沢山集まって患者さんを囲んでいました。二人の小さな娘さんが両側から手を握って誰に教えられた訳でもないのに「お母さんがいなくなってもケンカしないで二人で力を合わせて頑張るからね。」と言って、その傍らではお婆さんが手を合わせ必死に拝んでいました。病室ではモニターのアラームが鳴っていましたが、ついに波形は心停止を示してフラットになり、ピーというモニター音が響き渡っています。「残念ですがご臨終です。ご冥福をお祈り致します。」という私の宣告の言葉に、初めてご主人が涙を流されるのが見えました。周りでご家族や親戚の方のすすり泣く声が響くのを耳にしながら、大きな無念さと僅かばかりの達成感が入り混じった気持ちで病室を後にしました。

当時と比べると、現在は殆どの場合何らかの形でご本人にがんの告知をしますし、治療法やターミナルケアーの考え方も格段に進歩しましたが、今から20数年前のあの場面は、今でも私の脳裏に鮮明に蘇って来ます。

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Vol.24 肺がん告知せず(その2)

(前の記事の続き)この患者さんのご主人とご両親には本当の診断と病状を詳しく説明し、今回の化学療法(抗がん剤療法)が効かなければ余命は3ヶ月から6ヶ月と告げました。ご両親は涙を流しておられましたが、ご主人はすでに覚悟していたのか黙って聞いていて最後に「子供のようにわがままな家内で先生にはご迷惑をかけますが、どうか苦しみだけは取ってやって下さい。」と言われた言葉に男らしさと潔さを感じました。お世辞にもイケメンとは言えないご主人に美人の奥さんが惹かれた理由に思いを巡らせながら、「出来る限りの手を尽くしますから」と答えました。当時の慣例で患者さん自身にはガンを伏せ、カビの一種による重症の肺炎と説明し「強い薬を使いますが頑張りましょうね。」と励ましました。

治療を開始しましたが、予想通り抗癌剤の効き目は悪くガンの進行は急速でした。20数年前、腺癌の最新の抗癌剤はシスプラチンという薬でしたが、投与後に腎臓を保護するため500ccの点滴を10本もしなければならず患者さんは大変でした。また化学療法には全身倦怠感や白血球減少による気管支炎や肺炎などの合併、腎障害肝障害など重大な副作用を伴います。しかも悪者ほどしぶといというか、ガン細胞は抗癌剤に対して容易に抵抗性を獲得する能力を備えているらしく、何回か投与していくうちに徐々に効果がなくなって来ます。効果判定のため撮影したX線やCTの結果を見ながら、益々進行して全肺野を覆い尽くすほどに拡大して行く体内からの侵略者を恨んで、一人夜中の医局で無念さと無力感におそわれたものです。

症状は咳、喀痰に加えて、脊髄神経への転移による激しい腰痛や体中の痛みのためモルヒネを使わざるを得ませんでした。毎朝大学病院の東7Fにある個室に回診に行く度に、「先生本当に私の病気治るの?」「痛いからどうにかして!」という悲痛な訴えに、私の気分も足取りも重くなったものでしたが、ある朝いつものように「お早うございます。気分は如何ですか?」と尋ねると、何と「いいです」という答えが返って来ました。いつもなら沢山の訴えが続くはずなのに、、、“あれ?どうしてしまったのかな?”(次の記事に続く)

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