私の研修医時代は今から25年も昔のことですが、振り返ってみると、忙しいながらも毎日が新鮮でとても充実した日々でした。私が所属していた岐阜大学附属病院第2内科(循環器・呼吸器科)は、病院では最大の科でしたが、自由で個性と人間味豊かな雰囲気に溢れていました。
研修医は、重症疾患をはじめ大学病院ならではの様々な難しい疾患の患者さんの主治医を勤めながら、毎日の外来問診や尿検査などのノルマをこなし、時には関連病院へ外勤や夜間の当直勤務、会社・銀行などの事業所検診など、非常に忙しい中で色々な臨床の機会を経験しました。無論、若い新米医師の実力不足と経験不足をカバー出来るのは体力と情熱くらいしかありません。
この時期に自分のその後の人生を決定することになった多くの経験や色々な人々との出会い、思い出深い沢山の患者さんなど、今も私の心の中で消えることなく鮮明に残っています。数え切れないほど多くの患者さんの生死の場面に立ち会い、ドラマ以上にドラマチックなシーンにも数多く遭遇しました。
また大学病院から派遣されて色々な病院へも勤務しました。最新鋭の高度医療機器の揃った大きな病院では外来患者も多く、当直中は夜中でも救急車が何度も入って殆ど休む暇もありません。TVドラマのERはadrenergicに少々やり過ぎの感じですが、それに近いことは時々あります。ようやく救急外来から解放されて当直室へ戻ると、今度は入院患者さんの状態が急変して病棟へ駆けつけたりで、当直医師用の夕食を3回目のレンジにかけて食べる頃にはさすがに味もなくなっていましたが、空腹の胃には結構なご馳走に思えたものです。
週に1回、愛知県三河大野にある病院へ当直と翌日の診療にも行きました。ブッポウソウで有名な鳳来寺山や湯谷温泉が近くにある山間の病院ですが、スタッフばかりか患者さんも地元の顔見知りで、その家族的な雰囲気が私はとても気に入りました。私の地元も岐阜県瑞浪市の田舎だったせいかも知れませんが、、、、最近の都会の病院にはない何かしら懐かしさや温かさがありました。しかし、驚いたのは往診の時でした。(次の記事に続く)
(前の記事の続き)私の再三の注意にも拘らず、「タバコを吸って死ねば本望」と言って禁煙されなかった狭心症の患者さんは、心臓カテーテル検査とPTCA(経皮的冠動脈形成術)を受けて無事に退院されました。
その後は胸痛も消えて外来へ通院されていましたが、その年の11月に突然救急車で運ばれて来られました。当時は携帯もなく医師は大抵黒い大きなポケベルを持っていましたが、アルバイト先の病院で当直していると早朝にポケベルが鳴って来ました。第2内科(循環器内科)ナースステーションへ電話をするとあの患者さんが救急搬送されるとのこと。狭心症や心筋梗塞が晩秋や初冬の早朝に多いのは、この時期体が寒さに慣れておらず、早朝には血管が敏感で攣縮を起こしやすいのが原因と言われています。
着いてみると患者さんは、殆ど意識がなく呼吸も微弱で非常に危険な状態でした。直ぐに救急蘇生をしながら心カテ室へ直行し、私がAMBU(人工呼吸バッグ)を押しながら心カテ検査が始まりました。結果は前回と別の部位の完全閉塞による心筋梗塞でした。冠動脈に何度も血栓溶解剤を流すと僅かの再開通が見られ、PTCAによってある程度の血流が流れるようになりました。その後昇圧剤で血圧も上がり呼吸も安定し意識も回復して来ました。
こうしてまさに九死に一生を得た患者さんが、最初に言われた言葉は「先生、そろそろタバコを止めんといかんな」でした。私は耳を疑いましたが、今回の発作が余程苦しかったのはナースカルテの「口から心臓が飛び出るくらいに苦しかった」という言葉で分かりました。結局ある程度の後遺症が残りましたが、患者さんは以後きっぱりと禁煙をされ健康にも大変気を遣われて87歳まで元気に生きられました。
亡くなられた後で奥様から私宛にお礼の手紙と立派なライターが送られて来ました。文面には「主人が、ここまで長生き出来たのはあの若い(?)先生のおかげだと口癖のように言っておりました。このライターは20年前に心筋梗塞を起こす直前主人が買ったまま使わずに記念に大切にしていた物で、自分が死んだら是非小木曽先生に渡してくれと申しておりました。」 私はタバコを吸いませんが、ライターは今も大切にしまってあります。
(前の記事の続き)こうして私の医師としての人生がスタートしましたが、物語やドラマと違って現実の医療の世界は非常に忙しくて過酷で大変です。私が入局した岐阜大学附属病院第2内科は循環器と呼吸器や腎臓が専門の病院最大の科で、心筋梗塞や狭心症、急性心不全・呼吸不全など多くの患者さんが緊急で入院されて来ます。特に研修医期間中には色々な種類の難しい病気や重症の患者さんの主治医が順番で当てられます。
当時の第2内科は、学者らしくて温厚な教授、義理と人情味に溢れた組の親分のような助教授、そして留学経験も豊富でダンディーな講師のいる特徴ある科で、その自由な雰囲気の中、私は忙しくも楽しくてとても充実した日々を過しました。今にして思えばまだ未熟ながらも純粋で熱血感溢れた青年医師(?)というところです。2年間の研修医時代に受け持った患者さんのことは印象が強く今でもハッキリと覚えていますね。
ある会社の経営者で60代の男性が、狭心症発作で入院されて心臓カテーテル検査を受けられました。心臓の筋肉に酸素を送る冠動脈という血管が動脈硬化などで狭窄して細くなると心筋が酸素不足に陥り狭心症症状が起き、閉塞してしまうと心筋梗塞になって生命の危険や後遺症が残ります。この患者さんは検査の結果、左冠動脈に90%の狭窄が2箇所発見されたため、当時主流であったバルーン拡張術(現在はステント留置術)を行なって血管を拡げることが出来ましたが、この患者さんは1日40本のヘビースモーカーでした。
喫煙は冠動脈硬化の最大の要因で当然即禁煙です。ところがこの人生経験の豊富な患者さんは、「先生、わしは若い頃に苦労して会社を興して今まで頑張って一代でここまで大きくして来ました。酒もゴルフもせず、これといった趣味もない。楽しみと言ったら仕事の合間のタバコだけです。誰に何と言われようとこれだけは辞められません。タバコを吸って心筋梗塞で死ねば本望ですよ。」と言って、当時若かった私の注意などは全く聞いてくれそうにない雰囲気でした。(次の記事に続く)
(前の記事の続き)昭和50年に岐阜大学医学部へ入学した私は、父親の闘病生活の中家庭教師のアルバイトや大学の勉強に追われて、忙しいながらも充実して思い出多い学生生活を送りました。その間多くの友人や沢山の知人に恵まれて、ある家庭教師の家では3姉妹を上から順番に教えることになり、夕食、夜食を頂いた上にお風呂まで入ってまるで家族同様の親しい付き合いになりました。当時は可愛い女子高生でしたが、私が2年前に開業した時には、お子さんが大学入試を控えて忙しい時期に真っ先にお祝いに駆けつけてくれました。
そんな学生生活の中で4年半の闘病生活の末父親が亡くなりましたが、その最期の場面は今でもはっきりと脳裏に焼きついて30年を経ても消えることはありません。大学卒業後、父親の病気や主治医だった熱血医師の影響もあって岐阜大学第2内科(循環器及び呼吸器内科)へ入局しましたが、研修医として最初に受け持った患者さんが、父親と同じ歳で同じ病気で病態もよく似ていて不思議な運命を感じました。その患者さんが徐々に重症化し呼吸困難のためレスピレーター(人工呼吸器)を装着する頃になると、病院の医局に寝泊りする日が続き私がフラフラになっていると、ご家族から「先生大丈夫ですか?少しは休んで下さい」と逆に心配される始末でしたが、ご家族の気持ちが手に取るように分かって頑張ったものです。
私の体力の限界を知っていたかのように静かに息を引き取られた患者さんの回りで悲しむご家族の姿に以前の自分をオーバーラップさせて、これはきっと天国(or not?)にいる父親が医師としてスタートを切った私へのエールであったに違いないと思いました。(次の記事に続く)